たのしい教師生活

高校教員7年目、地歴公民科担当。「たのしい」教師生活にするべく日々奮闘中。

「苦労の丸投げ」をさせない面談

6月1日から学校再開、となった瞬間に、なぜこうも全てを「通常」に戻そうとするのだろうか、と首を傾げてしまうような、というか、あまりにも通常通りに1日が進んでいくものだからそれについていくのに必死で、首を傾げる暇さえない1週間だった。

分散登校まではそろーりそろーりという感じで、「クラスを半分に分けると目が行き届いていいね」とか「午前授業だから午後を授業準備に当てれていいね」とか、そんな会話をしつつ定時退勤していたのが、まるで嘘のようだ。

私が顧問をしている部活は、月・水・金で16時スタートの17時終了。しかも月曜日はミーティングで練習はしていない。1時間の練習時間では基礎練習ぐらいで終わってしまうのだが、「もっと練習したーい」と生徒が言っているぐらいがちょうどいいだろう。そして、日が暮れるまでひたすら活動している外部活を尻目に18時には退勤。19時には布団にくるまっていた。そうないと全然体力が持たなかった。

土日も部活をオフにしたので、ようやく家事をしたり読書をしたり。今週はこの本に出会えたのが幸せであった。

大学のゼミの指導教員や臨床心理学担当の教員が「べてるの家」をやたらと推していたので名前は知っていたが、石川晋先生の投稿にも名前が出てきたので、読んでみることにした。
「このような在り方で学級経営を考えたら、どうなるのだろう?」という大きな問いが浮かんできたのでそれは時間をかけて追いかけるとして、この本で一番面白かったのが、以下の部分だ。

自分のかかえる苦労を粗末にして、自分で吟味することも悩むこともせず、心のゴミを捨てるように外来の主治医の前で話すと「外来はゴミ捨て場じゃない」と相手にもされない。

このブログでも以前(と言っても5年前。遠くなりにけり、だ)書いている*1のだが、研修なんかでは「生徒の声を聴きましょう」とまるでお題目のように言われる。以前のブログ記事から引用しておこう。

吉田は、「カウンセリング」と称して生徒を甘やかす風潮があると言う。「受容と共感(理解)」というカウンセリングの考え方を、「許容と指導の忌避」と曲解している教員が多いということである。
しかしカウンセリングは、問題を消し去るのではなく本人の抱えている問題に気付かせ、正面から向かわせるためのものだ。問題に正面から向かわせるのだから、生徒に対してきびしい要求をすることもありうる。きびしい要求をすることで子どもの中での矛盾や葛藤を生み出し、自らの問題点に気付かせていくのである。ここを誤解してしまうと、生徒と「ぶつかる」ことをせずただ甘やかしてしまうことになる。

生徒が抱えている問題、つまり「苦労」に立ち向かわせるのがカウンセリングの本質なのだ。自分が生徒の面談をしていて徒労感を持ったのは、こういうところであり続けている。「自分は生徒を甘やかしているだけではないか?」ということだ。

そういえば、以前の同僚が、「私は、生徒の『青春の悩み』の相談には応じない」ということを言っていたのを思い出した。これらは確かに生徒たちが「苦労の主人公」になるべき問題だし、「解決してくれ」と「苦労の丸投げ」をこちらにされても、そんな生徒のプライベートのことに教師は立ち入れないし立ち入らない方が賢明だろう。

たった1行でもいろんなことを考えさせてくれる本に、久しぶりに出会った。ざっと通し読みした後「もう一度読もうか」と思える本にはなかなか出会えない。次は1ページ1ページ、書き込みをしながらじっくり読むことにしよう。