たのしい教師生活

高校教員7年目、地歴公民科担当。「たのしい」教師生活にするべく日々奮闘中。

幸福と不幸

人間万事塞翁が馬」とか「禍福は糾える縄の如し」とか、その類の言葉がお気に入りだ。

 

今、仕事の上では「あの時の幸せが今の禍につながっているのだ」としみじみ感じ入る状況である。だが、「今の禍」が、未来の幸せにつながる、とも言える。

 

そう思っていなければ、なかなかやっていられない(笑)

社会科授業における「問い」とは何か

訳あってタイトルのことを調べていたら、新学習指導要領の「問い」というのはいわゆる発問のことではない、ということがわかった。。。そうではなくて、学習課題とでも言うべきものなのであった。

 

学習課題というのは、「契約トラブルが発生したら、どのように解決したらよいのだろうか?」といった具合で、その授業なり単元なりを貫く「問い」である。

だが、この学習課題をいきなり板書したところで子どもたちが興味を持つことはあり得ない。

そこで重要になるのが、具体的な社会的事象である。

 

藤岡信勝の言った、教育内容と教材との関係は、以下の通り。

「A(教材)でB(教育内容)を教える」

 

これになぞらえると、

「A(具体的な社会的事象)でB(学習課題)を教える」

ということになる。

 

ちなみに、社会科の授業でありがちなのはAがあってBのない授業。

具体的な社会的事象を取り上げても授業が盛り上がらないのは、「結局、それを通して何がわかるようになるの?」ということである。

この場合の「何」というのは、法則なり学問の成果などの「概念装置」のことである。

 

 

 

読書と社会科学 (岩波新書)

読書と社会科学 (岩波新書)

  • 作者:内田 義彦
  • 発売日: 1985/01/21
  • メディア: 新書
 

 

メモ:「なぜ」発問と「どのように」発問

-「現象ではわかるが、本質を聞かれるとわからない」(板倉聖宣

 どのようになっているかがわからなければ、なぜは考えられない。

-「問い」には教師の問いと子どもの問いがある

 「なぜ」という問いを子どもに生みだすために、教師は戦術的に「いかに」と問う。「いかに(どのように)」という問いが「なぜ」を「具体化」する。

-「なぜ」という問いは、本質(教育内容)を問うことになる

 その問題に答えるだけの条件が子どもたちにどの程度備わっているかが重要。

 

 

 

 

教材研究メモ:外部性と公共財

「政治・経済」の授業をしていて、外部性と公共財の部分がうまくいかなかったので、改善のためのメモ。

  • 外部性

 売買取引を経ずに、ある生産活動が他者へ与える影響
 ex)花粉症…スギ農家による生産活動が、花粉症患者に影響を与えている(が、売買取引は経ていない)
 *ピグー税:公害・環境破壊などによる被害(←企業が外部の住民に負担させていた)を、企業に支払わせる

  • 公共財

 非競合的かつ非排除的な財 ex)国防サービス・一般道路 
  *競合的:複数の人々が同時に利用できない 
   排除的:拠出に貢献した特定のメンバーしか利用できない
 非競合的:同時に利用できる 
 非排除的:あり方にいくつかパターンがある
 1)物理的な問題=国防サービスの受益は物理的に排除できない
 2)社会的な問題=「生命身体の安全」(国防)、「移動の自由」(一般道路)は基本的な権利→社会的に排除すべきでない
 3)経済的な問題=排除しようとするとコストがかかる(一般道路…監視カメラやゲートの設置など、コストが見合わない)
   cf.コモンプール財:競合的だが非排除的 ex)公海の漁場  
    クラブ財:非競合的だが排除的 
    ex)高速道路←提供されるサービスの内容は「移動の自由」が保障するものを超えている=社会的な問題は発生しない

 では、公共財の自発的供給はなされるか?→ゲーム理論で考えるに、なされない。 
  cf.フリーライドの発生
 *これについては、「お供え物ゲーム」*1で実感してもらうとよいか。


この説明は坂井豊貴『ミクロ経済学入門の入門』岩波新書, 2017を参照した。
しかし、この本ではだいたいゲーム理論で説明している。これは新科目「公共」でも大いに使える考え方であるように思う。

ミクロ経済学入門の入門 (岩波新書)

ミクロ経済学入門の入門 (岩波新書)

    

*1:原田智仁編著『平成30年版 学習指導要領改訂のポイント 高等学校 地理歴史・公民』明治図書,2019 p.78

授業における「問い」っていったいぜんたい何なのかねぇ?

11月に行われる公的な研修会で、授業実践について発表することになった。

先日、教育委員会の担当の方と打ち合わせを持ったが、テーマは「新学習指導要領で求められる授業」とのこと。もう少し具体的に言えば、「地理総合」「歴史総合」「公共」といった新設科目の授業をどう作っていけばよいか、ということだ。
打ち合わせの中で盛んに出てきたキーワードが「問い」。「新学習指導要領の解説にも問いが示されていて〜」と担当主事が言っていたので、さてさてどんな感じだったかね、と久しぶりに学習指導要領解説「公民編」を開いてみた。

結論としては、「問い」という言葉がキケンな言葉であるということがよくわかった。
学習指導要領解説ではいろんな「問い」なるものが示されているが、たとえば下のような感じである。*1

我が国が軍縮に向けて不断に努力するためには,どのようなことが大切か
国際平和を推進し人類の福祉の向上を目指すためにはどのような国際貢献が考えられるか,
持続可能な国際社会を形成するために私たちは何ができるか

うーむ、これが「問い」だとしたら、すでにこれまでの教科書に示されているし、そもそもこのままでは生徒が追求したくなるような「問い」にはなっていない。
どうも私自身が考えていた「問い」と、主事様が話していた「問い」は別物であるようだ。
手元にある新学習指導要領の解説本によると、「問い」とは「学習課題(学習問題)や教師の発問」とされている。*2
しかし、学習課題と発問を並列にしてよいのか、という疑問も湧くし、そもそも課題と問題のちがいは何だろうとも思う。
しかもしかも、学習指導要領解説「公民編」では「現実社会の諸課題に関わる具体的な学習上の課題を「主題」として示すこととした」*3とある。うーむ、課題・問題・主題と3つも並んでしまった。

こういう言葉の定義を固めておかないと、発表した後の討議もすれ違いに終わってしまう可能性がある。
単元なり1時間の授業なりで扱う内容を示す「問い」(藤岡信勝氏が言う所の「教育内容」と言ってもよいかもしれない)のことなのか、授業中の発問のことなのか、混同したままでは議論しても話がお互い噛み合わないだろう。

2年前、修士論文執筆中に指導教員に言われたのは「博士課程に行くなら、自分の修士論文を改めて精査し直すことで最初の論文のタネが生まれる」という趣旨のことを言われた。
論文ほどかっちりしてはいないが、修士論文を精査するいい機会だ。
久しぶりに頭が研究モードになりそうだ。

*1:学習指導要領解説「公民編」p.65

*2:澤井陽介『[図解]授業づくりの設計図』東洋館出版社, 2020 p.88

*3:学習指導要領解説「公民編」p.50

ホットクック+食器洗い機→最強

1ヶ月前から「ヘルシオ ホットクック」が気になっていた。

一人暮らしを始めて7年、なんとなんと、「外食飽きたなぁ…」と思ったのである。では自炊するか、というとそれはハードルが高い。なんせ、中学校の家庭科の成績は2だ。

「材料を切って調味料を入れれば、あとは勝手にやってくれる」というホットクックなら、自分でも使えるかもしれない。そう思い買ってみた。

 

 

購入して1週間、これはほんとにほんとに簡単だ。今日は18:15退勤でスーパーに行き、じゃがいも、玉ねぎ、人参と牛肉を購入。18:35に帰宅、材料を切りホットクックに投入。19:30には美味しいビーフカレーの完成だ。投入した後のかき混ぜもホットクックが自動でやってくれるので、自分の調理時間は5分。おお、なんと楽なのだ。

買ったのは1.6 Lなので、2人分できる。食べるのは当然1人分だから、明日はカレーうどんにする。内鍋ごと冷蔵庫に入れることができるので、明日の夜に取り出してうどんのかけ汁と冷凍うどん(冷凍した状態でいいのがこれまた楽。)を投入し加熱すればいい。

 

しかし、である。ホットクックは部品が多い。かき混ぜユニット、内鍋、ふた、つゆ受けetc...洗い物が大変なのだ。ADHD型人間のワタクシにとって、食器洗いは天敵。調理が楽になっても、毎日部品を洗わないといけないのはかなり苦しい。

ということで、食器洗い機を買うことにした。 

 これを買ったことで、状況が改善どころか革命的に変化した。

ホットクックで調理→食べ終わった食器やコップと一緒にホットクックの洗う必要がある部品を投入→30分でピッカピカ♡

やることといえば、食器やホットクックの部品を軽く水ですすぐこと、食器洗い機に水を投入することぐらいだ。食器洗い機が頑張ってくれている間に、本を読んでいてもYoutubeを見ていてもいい。これは最高。

時間にゆとりが生まれるのもいいし、毎日ホットクックを使える環境になるのもいい。

 

これは人生変わるかもしれない。

なんてこった、パンナコッタ

 「なんてこった、パンナコッタ!!」とは吉本新喜劇の逆の一つであるが、どうにもこの夏休み、この言葉をすでに100回つぶやいてしまうような精神状態である。

 これに関しては来週以降じゃないとどうにも動けないのでジタバタしても仕方がない。じっと我慢するほかない。

 

 さて、昨日の話の(やや)続きである。

 昨日も書いたとおり、「倫理」の「日本近現代の思想」は、やたらと登場人物が多い。「あの人も紹介したい、この人も紹介しなきゃ♡」という教科書執筆者の熱い思いを反映してか、使用している教科書では20ページの記述の中に合計37人の思想家・作家etc.が登場する。
 私の失敗は、「これをコンパクトに終わらせよう」と思ってしまったこと。「コンパクトに=時間短縮」であって、講習4日間=200分 ÷ 37 ≒ 5分20秒と、単純計算で思想家一人当たり約5分。これは計画の時点で無理がある。今回の講習で紹介した人物たちが草葉の陰で泣いとるで、という授業にしかならなかった。


 「細かい話をぜーんぶきっちり、穴埋めプリントで♡」という発想になるときは、そもそも自分が知らない・わかっていない証拠なのだ。「その話を煎じ詰めるとこういうことなんですよ」と言うのが提示できていないのだから。
 さらに言えば、「ここがなんと、驚くべきところでねぇ!!」というところが教師の方でわかっていれば、そこを発問に活かせばいい。そうすれば授業はいくらかでも活性化してくる。

 教師がわかっていないことは教えられない。そんな教師に教えられた子どもたちは混乱する。おぉ、そんなことでよいのか(いや、よくない)ということで、勉強の日々は続くのである。でも、どんどんどんどん知的関心が広がっていることには感謝しかない。毎日ぼんやりしている暇もなく生きていけるのは幸せなことである。