たのしい教師生活

高校教員7年目、地歴公民科担当。「たのしい」教師生活にするべく日々奮闘中。

『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』

 

 孔子孟子の思想はどうも説教くさいな、というのが正直な印象だった。

そういう気持ちの乗らなさは敏感に伝わるもので、「倫理」の授業で扱ってもいまいち盛り上がらなかった。

 

しかし、この本を読むとだいぶ印象が変わる。孔子の思想も孟子の思想も、「人生をこう変えるんだ!」という熱い思いがあることがわかる。

 

中国思想は、西洋思想のような壮大な問い(わたしたちに自由意志はあるか、とか、道徳とは何か、とか…)ではなく、「きみは人生を日々どう生きているか」を問う。

孔子の思想のキーワードの一つに「礼」があるが、この礼は、「かのように」ふるまうことである。そのことで、いつもの自分の習癖とちがった振る舞いをすることになる。つまり、変化が生まれる。その変化の中に、今までの自分とはちがう、ありのままの自分を見つけることができる。

 

たとえばこんな具合で、中国思想の単元の「教育内容」がいろいろと生み出せそうな本である。

おもしろかった。

2020

ついに2020年になった。この数字の並び、やはり何か特別なものを感じさせる。

 

2019年は、3月に修士課程を修了し4月からは自分の好きなことができる…と思っていたが、日常がそんなに変わるわけもなく、むしろ空いた時間でのんびりするようになった。

2020年は、リスタートの年。目標を新たに定め、それに向かって進んでいきたい。

そのためには、体調管理も肝要だ、ということを痛感したのが2019年。有給休暇を20日間きっちり取るのも目標にしたい。

 

【小ネタ】国民国家の形成過程

日本史の近現代(明治政府)だとか、政治・経済の「国際社会の形成」あたりで、国民国家とは何か、という話が出てくる。

 

国民国家」という抽象的な概念を納得してもらうための説明として、私は2つ用意している。「私たちは『日本人』である、と言うのはなぜか?」という問いを納得してもらうためのものである。

 

1)日本での災害、海外での災害・・・何がちがう?

「**県に住む私たちが、『熊本県で大地震が発生した』という報道を耳にしたとする。そのときは心が痛んだりたとえば募金しよう、と思う人が多いはずだ。一方、『トルコで大地震が発生した』という報道を耳にしても、我々の大多数はさして興味・関心を示さない。この違いはいったいなぜだろう?」

→国家の一員としての帰属意識(国民的アイデンティティ)が、無意識のうちに刷り込まれていることを自覚してもらう。

 

2)「日本語」って何?

国民国家が形成される過程では、言語を標準化する、すなわち共通語をつくることが行われる。日本でいえば、共通語、NHKのアナウンサーが使っているような言葉への統一が行われる。たとえば、日本全国でみんなそれぞれの地域の言葉である方言を話していたら、どういうことが起こるだろう?次の音声を聞いて想像してみよう。」

 ラジオ体操第1「ウチナーグチ編」を流す。すると、生徒から「これ、何語?!」「数字の言い方が違う!」など様々な感想が出てくる。それらをていねいに拾っていく。

「いま、『これ、何語?』という感想を漏らした人がいたが、おそらく明治時代の人々もそう思っただろう。自分の知らない・わからない言葉を話している人々とはコミュニケーションが成立しづらくなるのは、英語を勉強している君たちなら容易に想像がつくはずだ。だから、各地の方言が残ってしまうと、『一つの国家』という意識にはなりづらい。だからこそ、共通語を設定したのだ。」

→余裕があれば、国定教科書の「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」の話とか、沖縄の「方言札」の話もするが、なかなかそこまでの時間的余裕はない。

 

 

ラジオ体操第1 ご当地版

ラジオ体操第1 ご当地版

 

 

「イスラーム」の授業

現代社会」の授業で、イスラームを1時間で説明するには、、、というので少し悩んでいる。

要は、どこに重点を置くか、ということだ。

 

最初に提示する「フレーム」としては、「イスラームは、『型』を重視する」というところか。

 

授業のメインでは、『クルアーン』にある六信五行のうち、断食に焦点を当てようと思っている。「なんでそんなことするの?」という疑問に対して、その答えが明快だし割と分かりやすいのではないか。

そこから巡礼の話から「神の前では人間は平等である」というイスラームの基本認識を掴んでもらおうか。

 

やはり、話したいことが多すぎる。

女性が全身を覆い隠さなければいけない理由、とか、イスラーム過激派の話、とか。

 

いずれにしても、「馴染みのない」イスラームの話をするわけだから、よく組み立てないと。

 

信じない人のための〈宗教〉講義

信じない人のための〈宗教〉講義

 

 

 

世界史との対話〈上〉―70時間の歴史批評

世界史との対話〈上〉―70時間の歴史批評

 

 

【倫理】聖徳太子の思想

大学入試を考えれば出題頻度はそんなに高くないので飛ばしたくなるところだが、、、

 ・日本思想史においては聖徳太子の仏教理解から話が始まることが多い

・生徒も小中学校の授業で馴染みがあるので上手くやると授業に乗って来やすい

・11月の見学旅行で関西方面に行くのでその事前研修もしたい
 

ということで、30分かけてやってみた。

聖徳太子肖像画掲示

「この人は誰でしょう?」『聖徳太子
「この人は、多くの伝説を持っている。聞いたことあるのは?」
『10人の話をいっぺんに聞けた』(だから別名は「豊聡耳命」)
『馬小屋で生まれた』(だから「厩戸王」と言う、という話も)

他に、ブッダの骨を右手に握って生まれてきた、2才の時に南無仏と東方を向きながら行った、7才の時に百済からの書物は全て読みつくした、などを紹介。

「この人の業績、やったことで知っていることは?」
法隆寺を建てた』『憲法十七条をつくった』『冠位十二階を制定した』
「倫理の授業で聖徳太子を取り上げるからには、彼の思想を理解することが大事。そのために、憲法十七条を現代語訳してみよう。」

憲法十七条の第10項の一部(「共にこれ凡夫のみ。」のところまで)を配布し、現代語訳(作業)。
現代語訳し終わったところで、大意を確認しながら「凡夫」の意味を抑える。
その後、憲法十七条第10項の続きを提示する。
「そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。」

「これが、聖徳太子の考えた話し合いの極意。偉い人に服従する、ということではない。いくら自分が正しい!と思ってもほんとに自分が正しいかな?と謙虚であれば、相手の言うことに疑問符が浮かんでもそっちの方にもしかしたら正しさがあるのか?と考えれば、話し合いはうまくいく。」
「こういった考えは、中国の儒教思想の影響もあるが、やはり仏教思想を聖徳太子が理解したからこそ生まれてきたものだと考えられる。」
「ただ、わざわざこういうことを言わないといけないということは、、、現実はその逆だったということだ。」(廊下を走るな、というルールは廊下を走る人間がいるから生まれる。)
聖徳太子肖像画には、こういうのもある」
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「最初に見た肖像画と比べてみると、どういう印象をもつだろうか。仏教を軸に国家安泰を目指すべく奔走した聖徳太子の、苦悩もうかがえるかもしれない。」

この後、「世間虚仮、唯仏是真」などのキーワードを説明して終了。



 

 

 

終わり良ければ

学校祭が終わって、今日は振替休日だった。

 

学校祭で失敗するのも人生経験のうち、とは頭ではわかるし生徒たちにも言うのだが、やはり失敗はしたくない(笑)

案の定いろんなこと(というか人間関係のいざこざ)があって「こりゃ参った」という状況にも陥ったが、それだけ学校祭をがんばろう、と生徒たちが思って行動した、ということだろう。

学年内で順位がつくのだが、その結果が良かったから「終わり良ければすべて良し」となるはずだ。

 

実は担任である私が一番気を張っていたのか、昨日は高熱を出して寝込んでしまった。今日も1日自宅で静養。明日からまた学校だが、夏休みまで10日足らず。無理をせずやろう。

 

 

修正して臨む

いま、「現代社会」の授業は青年期をやっている。

その中で、欲求不満への対処という話が出てくる。その中で必ずやるのがフロイトの提唱した防衛機制についてだ。

欲求不満が発生した時の対処の方法は「1)合理的解決、2)近道反応[八つ当たり、やけ食いなど]、3)防衛機制」の3つに大別できる。

特に、3)防衛機制は無意識的に行われるという行動であるという点で、「人間は理性に基づいて合理的に判断し行動している」という人間の捉え方とは全く違う考え方を提示している。

これを提唱したのはフロイトという人物で…

 

という具合で授業を進めている。

教科書には、フロイトの「心的装置」についての図がある。

心は「自我・超自我エス(イド)」の三つの部分から構成されており、自我に対してはエス(イド)からリビドー(性的衝動;エネルギー)による要求とともに超自我からの監視・検閲が行われている…

なんていう型通りの説明をしたのだが、これがまぁ失敗してしまった。

防衛機制」という話とのつながりを欠いたまま、心的装置の図の説明に終始してしまったからだ。こういう話に興味のある生徒にとってはともかく、大多数の生徒にとっては「なぜ、この図の説明を聞かなければいけないのだろう?」という感じになってしまったのだ。

 

今日、あるクラスでやってうまくいかなかったので、明日の2クラスでは説明や発問を修正して臨みたい。

今年度は複数クラスを持っている科目が3科目中2科目あるので、最初で「うまくいかなかった…」ということを修正して次の授業に生かすことができる。

最初のクラスの子どもたちには申し訳ないが…