たのしい教師生活

高校教員7年目、地歴公民科担当。「たのしい」教師生活にするべく日々奮闘中。

【倫理】日本近現代史思想をどう教えたらいいのかねぇ

8月入っても学校があり、ヘロヘロヘトヘト疲労困憊の中で「1学期」が終わった。
我々教職員にはいざとなれば年休という手があるが、子どもたちにそのような発想は微塵もなく、ぐったりしながらも学校に来つづけていた。

さて、8月入ってからは午前授業となり午後からはいわゆる「進学講習」があった。日常のHR&授業+講習というのが案外きつくて、これまたヒィヒィ青色吐息といった趣であった。

倫理の講習は、「日本近現代史の思想」を3時間で、というもの。これが難題で、ますます青色吐息、というか息も絶え絶えなのであった。
教科書は大変簡潔な記述でまとめているものの、「あの人も紹介したい、この人も紹介しなきゃ♡」という教科書執筆者の熱い思いを反映してか、使用している教科書では合計37人の思想家・作家etc.が登場する。

私の失敗は、いきなり微に入り細に入り、個別具体の話をやってしまったということであった。今思うと当然なのだが、いつまでたっても先に行かないのである。

来年度やるとしたら、次のようにするだろう。

1.「大きな流れ」の全体像と対比関係を確認する
 明治:西洋文明の移入(イギリス=明六社、フランス=中江・植木、キリスト教=内村・新渡戸etc.)<->国粋主義、みたいな感じ。
2.重要人物(入試出題頻度の高い人物)の思想を、人物史的に取り上げる
 福沢諭吉中江兆民内村鑑三夏目漱石森鴎外西田幾多郎和辻哲郎柳田国男あたりか。ここで理解の「軸」「幹」を作り上げる。
3.枝葉の部分=受験ではよく出るけれど、一問一答的に片付けられるところを補足する

特に、1.なんかは忘れがちだが、こちらの頭の中に「見取り図」があっても生徒の頭の中にはない。もちろんそれは授業が終わった時に生徒の中に構築されているべきものではあるが、地図を持ってウロウロするのと何も持たずにウロウロするのでは大違いである。というか、後者は「迷子」になってしまって、「もうやーめた」となってしまう。


だがしかし、一番の問題点は教える私の中に日本近現代思想の「大きな流れのスケッチ」「見取り図」があったのか、である。おぉ、勉強の日々は続くのである。ということで、夏休み中の読書は以下の4冊。

私の個人主義 (講談社学術文庫)

私の個人主義 (講談社学術文庫)

もしも、自分が感染していたら…

ここ最近の首都圏での感染者増加は、いつか来た道を再び辿っているような状況である。具体的に言うと、

習近平国家主席訪日延期→中国からの入国制限」

東京オリンピック延期→感染者大幅増加・緊急事態宣言」

このあたりと似通っているように思う。

 

その中で、小・中・高で教諭や児童・生徒が感染したという事例が相次いでいる。各種報道ではサラッと流されているが、「臨時休校」ならともかく、「濃厚接触者として自宅待機」「PCR検査」という話もある。これが、どれだけ多くの人を巻き込むことになるか。もしこれが自分の学校で起こったらと思うと、ゾッとする。

 

仮に私が感染してしまったとしたら、担任しているクラス40人は「濃厚接触者」になる。感染発覚前に授業に行ったクラスの生徒はどうだろうか(感染した教員の中には、発熱したが平熱に戻り3日間勤務、その後再び発熱したところを検査したら陽性だった、というケースもあるようだ)。担任クラス以外に4クラスに教科担任で行っているからそこの160人もアウト。当然、その兄弟や保護者も濃厚接触者になる。

さらに、職員室で私の真向かい・両隣の先生も検査対象になるだろうから出勤停止。その先生が部活の遠征なんかに行っていて長時間一緒にいたら、その部活の他の先生もダメ、そうなるとその部活の生徒……

 

これ以上考えると本当に恐ろしいので一旦やめておくが、一人感染者が出るだけでその学校は麻痺状態だろう。

「濃厚接触者」の定義がもう少し緩やかだとしても、混乱は避けられない。当然、部活動の各種大会への参加や見学旅行の実施にも多大な影響が出る。

 

では、どうやったら感染を防げるのか?これが難題である。一番いいのは家から出ないことだが、すでに部活は始まっているし、「標準時数の回復」というお題目の元、夏休みを削って登校日を増やしているのだ。

これは、壮大な「チキンレース」である。最初に感染者を出した学校は大混乱。2番手、3番手…となっていくにつれて、「まぁ、これだけ感染が広まってるんだから仕方ないよね」という雰囲気となっていくだろう。私たちは、2ヶ月に渡る臨時休校にさえ「適応」してしまったのだから…

 

 

 

 

ムズカシイ時期

ついに7月に入ったが、教員も生徒も疲労困憊である。

こうなるとさまざまなトラブルが発生するもので、生徒に関わるものなら「いっちょやったるかい」と気合も入るのだが、大人同士のものなら「沈黙は金」、「It's not my bussiness」とでも嘯きながら、じっと身を固めているしかない(幸いにして発生していない)。

4月から6月の間に発生すべき事柄が、長らく噴火していないなかった火山のごとく、一気にそのマグマを噴出させているような感じである。

 

そんなムズカシイ時期を乗り切るにはどうしたらいいか。

よく食べて、よく寝るだけである。

寝不足のアタマとカラダでホームルームに行ってみれば、生徒の些細な言動や行動が癪にさわる。じっとうつむいてどうも体調が悪そうな生徒の存在に気付かず、次の日の朝、欠席連絡が来て「そういえば、昨日の時点で…声かけておけばよかった」と後悔することになる。

何より、生徒に悪影響だ。生徒だって、朝からボーッと不機嫌なおじさんの顔を見て嬉しくなるわけがない。

 

ということで、また淡々と6時間授業が5日並ぶだけの1週間が始まる。「無事に終わりますように…」と願わずにはおられない。

 

所与のものとしない

通常登校に戻ったということは、授業も当然通常に戻った。今年度の持ち科目の一つ、「政治・経済」は2パターンあって、受験に使う人向けの増単されたパターン(教科書は教科書会社曰く「詳細型教科書」「充実型教科書」。前者はともかく、後者の名称はいかがなものだろうか?)、そうではない人向けの2単位で進んでいくパターン。

 

前者はさっさっさっと進んでいて、今は朝日訴訟(なんせ、民主政治の原理は授業配信で終わった「ことにした」のである)。後者はようやっと民主政治の原理まで終わった。

 

問題になるのが、「民主政治の原理」の一番最後に出てくる「世界のおもな政治制度」。正面切ってやってみると、ただのあん肝の、ならぬ暗記ものという感じでなんとも沈滞した雰囲気の授業になってしまった。

3クラス担当しており、2クラスは討ち死に済みである。残り1クラス、ここでも同じようにやったら討ち死に必至。さてどうするか・・・

 

こういう時は、風呂に浸かるのが一番だ。職員室に座ってウンウン唸っていても、むしろ「もう無理じゃない?」なんていう気持ちになってしまう。

ふっと思いついたのが、「制度設計を所与のものとしない」ということ。授業の最初に示す話でも、「今まで学んだ原理が、システムの中でどう現れているか」とやっている。制度設計をしたのが人間であるなら、生徒たちだって自分の頭でその制度設計を追体験できるはずだ、、、すでにあるものを「こういうもんだから!」とただただ暗記する、それ以外の授業展開もありうるはずだ。

 

こんなことを思いついたのが今日の午前中。さてさて週明け、うまくいくだろうか。

 

「苦労の丸投げ」をさせない面談

6月1日から学校再開、となった瞬間に、なぜこうも全てを「通常」に戻そうとするのだろうか、と首を傾げてしまうような、というか、あまりにも通常通りに1日が進んでいくものだからそれについていくのに必死で、首を傾げる暇さえない1週間だった。

分散登校まではそろーりそろーりという感じで、「クラスを半分に分けると目が行き届いていいね」とか「午前授業だから午後を授業準備に当てれていいね」とか、そんな会話をしつつ定時退勤していたのが、まるで嘘のようだ。

私が顧問をしている部活は、月・水・金で16時スタートの17時終了。しかも月曜日はミーティングで練習はしていない。1時間の練習時間では基礎練習ぐらいで終わってしまうのだが、「もっと練習したーい」と生徒が言っているぐらいがちょうどいいだろう。そして、日が暮れるまでひたすら活動している外部活を尻目に18時には退勤。19時には布団にくるまっていた。そうないと全然体力が持たなかった。

土日も部活をオフにしたので、ようやく家事をしたり読書をしたり。今週はこの本に出会えたのが幸せであった。

大学のゼミの指導教員や臨床心理学担当の教員が「べてるの家」をやたらと推していたので名前は知っていたが、石川晋先生の投稿にも名前が出てきたので、読んでみることにした。
「このような在り方で学級経営を考えたら、どうなるのだろう?」という大きな問いが浮かんできたのでそれは時間をかけて追いかけるとして、この本で一番面白かったのが、以下の部分だ。

自分のかかえる苦労を粗末にして、自分で吟味することも悩むこともせず、心のゴミを捨てるように外来の主治医の前で話すと「外来はゴミ捨て場じゃない」と相手にもされない。

このブログでも以前(と言っても5年前。遠くなりにけり、だ)書いている*1のだが、研修なんかでは「生徒の声を聴きましょう」とまるでお題目のように言われる。以前のブログ記事から引用しておこう。

吉田は、「カウンセリング」と称して生徒を甘やかす風潮があると言う。「受容と共感(理解)」というカウンセリングの考え方を、「許容と指導の忌避」と曲解している教員が多いということである。
しかしカウンセリングは、問題を消し去るのではなく本人の抱えている問題に気付かせ、正面から向かわせるためのものだ。問題に正面から向かわせるのだから、生徒に対してきびしい要求をすることもありうる。きびしい要求をすることで子どもの中での矛盾や葛藤を生み出し、自らの問題点に気付かせていくのである。ここを誤解してしまうと、生徒と「ぶつかる」ことをせずただ甘やかしてしまうことになる。

生徒が抱えている問題、つまり「苦労」に立ち向かわせるのがカウンセリングの本質なのだ。自分が生徒の面談をしていて徒労感を持ったのは、こういうところであり続けている。「自分は生徒を甘やかしているだけではないか?」ということだ。

そういえば、以前の同僚が、「私は、生徒の『青春の悩み』の相談には応じない」ということを言っていたのを思い出した。これらは確かに生徒たちが「苦労の主人公」になるべき問題だし、「解決してくれ」と「苦労の丸投げ」をこちらにされても、そんな生徒のプライベートのことに教師は立ち入れないし立ち入らない方が賢明だろう。

たった1行でもいろんなことを考えさせてくれる本に、久しぶりに出会った。ざっと通し読みした後「もう一度読もうか」と思える本にはなかなか出会えない。次は1ページ1ページ、書き込みをしながらじっくり読むことにしよう。

 
 

受け止めきれない豪速球

勤務校は、明日から通常通りの動きとなる。

生徒は緊急事態宣言下で「適切に」振舞っていたようで、ほぼほぼ外出せず自宅にいたようである。

2ヶ月も家で休んでいたところに、いきなり8時半から15時半まで拘束される。50分間、姿勢を正して座り続けるという苦行を1日6回繰り返す、という習慣を取り戻すところから始まる。

 

だが、教師の方はどうか。緊急事態宣言が出ていたとは言えど、出勤はしていた。なんなら、仕事の合間にバドミントンやバスケットボールで体を動かしていた(私ではないが)ぐらい、持て余している(感染者がいない地域だったが故の状況ではある)。

 

ここに落とし穴がある。

 

生徒は授業を受けるだけでも苦しいのに、教師はもう「肩が暖まりまくっている」状態なのだ。しかも、教師の方は教科担任制だから1日多くても4コマぐらいだ。そうなると、「学びの保障」という名分のもと汗をかきかきペースを上げてガンガンやっても、教師は「今日のビールは美味いぞ〜」ぐらいの感じで出来てしまう。

そんな授業を6時間連続で受けさせられる方は、溜まったもんじゃないだろう。

 

私としては上手く生徒と波長合わせをして、無理なくやりたいと思っているが。

子どもの概念と「ズレ」

次代の学びを創る知恵とワザ

次代の学びを創る知恵とワザ

  • 作者:正裕, 奈須
  • 発売日: 2020/02/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
上智大学の奈須先生は、軽妙な文章で学問的な成果と授業実践を繋げてくれるのでありがたい。

この本のなかに、「概念の境目をくっきりと描く」という話が出てくる。

たとえば、「鳥」という概念(カテゴリー)を獲得していくには、「典型事例」(ex.ハト、ツバメ、カナリア)、「非典型事例」(ex.ペンギン、ヤンバルクイナ)、「まぎらわしい事例」(ex.コウモリ、飛行機)の三種類の事例が必要である。
典型事例から形成される「鳥は空を飛ぶもの」という概念は、多くの鳥の重要な特徴を表してはいるが、正確ではない。それを修正・更新するためには、非典型事例(この場合は鳥ではあるが空を飛ばない)やまぎらわしい事例(この場合は空を飛ぶけれど鳥ではない)と出会うことが必要となる。これら三種類の事例の関係を整理していくことで、鳥というカテゴリーの境目がくっきりと浮かび上がり、「この境目を的確に表現する特徴なりそれを表す言葉を探す作業」*1、すなわち概念の修正・更新が行われる。

このことを踏まえると、教師が授業を組み立てていく上では、以下の2点が必要となる。

1)子どもたちがどのような概念を形成しているか:どのような事例と出会い、どのような共通する特徴を抽出しているか

2)どのような非典型事例やまぎらわしい事例を、どのような順序や方法で提示していくか

 

これを踏まえると、どのような発問が生徒に驚きをもたらすかが分析できるように思う。

私の授業の中で生徒からの反響が大きいのは、やはり憲法尊重擁護義務の「4択クイズ」である。

以前の記事から抜粋。

具体的には次のようなクイズ形式で生徒に聞く*1。

「つぎのうち、憲法を守る義務のない人は誰ですか」
1 天皇   2 国務大臣   3 国会議員   4 国民

こう聞くと、だいたい3分の2は「4 国民」を選ぶ。
しかし、憲法第99条(憲法尊重擁護義務)の条文にある通り、憲法を守る義務があるのは1〜3であって国民ではない。
この時点で生徒は「えっ?」と驚く。その上で立憲主義の説明をする。井上ひさしの「憲法は国民から政府への命令書」という言葉で「翻訳」すれば、「そうだったんだ!」と生徒も納得する。

子どもたちは、憲法を「ルール・きまり」という概念のもとに括っているように思われる。憲法は私たちが守らなければならないもの(の一つ)と考えているということである。「義務を果たさない奴に権利なんてないんだ!」などという「お説教」をかまされていればなおさらだろう。

しかし、憲法と法律は明らかに違う。国民と政府(国家権力)との間の「矢印の向き」(守らなければならない主体)がちがう。

憲法というものは、あくまで国家権力が守るべきものであり、基本的人権の侵害をさせないためのものだーこれは、生徒が持っている「ルール・きまり」という概念とは明らかに異質である。

だからこそ、「えぇ、そうだったの?!」という驚きが生まれる。そこをうまく次の学習に繋げていくと、子どもたちの中に「憲法」という新たな概念が形成されていくのかもしれない。 


社会科教育では「ズレ」という議論があったはずだ。改めて読み返してみると、いろいろな発見がありそうだ。
tanoshi-kyoushi.hatenablog.jp

*1:p.145