たのしい教師生活

高校教員7年目、地歴公民科担当。「たのしい」教師生活にするべく日々奮闘中。

「所属なき人」を生み出してはいないか

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じっくり読んでみると、身につまされる。

小熊は、19世紀イギリスの首相ディズレーリの「二つの国民」という言葉を敷衍して現代日本も「第一の国民」「第二の国民」が存在するという。

「第一の国民」は「正社員」「正会員」とその家族、「第二の国民」は、それらの組織に所属していない「非正規」の人々であると定義している。

 

問題になるのは「第二の国民」の方で、彼らは「所属する組織」を名乗ることができず、さまざまな「縁」を持てないことになる。そんな「第二の国民」はますます増加するばかりで、藤田孝典の言葉で言えば、いわゆる正社員の中でも10年後、20年後の将来を描けない「周辺的正社員」が増加しているのだという。

 

そんな彼らの抱える困難に対して報道も政策も十分ではなく、所属組織のない人々が増えるにつれて「支持政党なし」も増えており、それは、政党内での争いなど「宮廷内左派」「宮廷内右派」の争いにしか見えないからだと小熊は言う。

 

この論評は、「放置された「第二の国民」の声は、どのように政治につながるのか。誰が彼らを代弁するのか。」という問いで締めくくられている。

 

これを読むに、大多数の人間にとっては政治のニュースや報道があっても、自分とは関係ない世界の話が報じられているに過ぎないということになる。

 

これは、公民科の意義が問われていると思う。公民科こそ、「政治や経済の話は、君たちにとって関係ない話ではないんだよ」と呼びかけるのが最も容易な教科だと思うからだ。

そしてもう一つ、「第二の国民」となっていく過程に、絶対に学校教育が存在していることが問題だと思う。学校教育が「第二の国民」を生み出しているのだ、などという単純なロジックはありえないとしても、学校教育は「第二の国民」を生み出すのに多かれ少なかれ関与しているのは間違いない。

 

「第一の国民」を生み出すような教育をすべきか、仮に「第二の国民」になったとしても、放置されないような、つまり自分から声をあげられる人間…「第三の国民」といった方が良いかもしれない…を生み出すような教育を構想していくべきか。さまざまな方向性がありうるが、いずれにしても学校教育の先には、生徒たちの社会生活が待ち受けていることは忘れてはならないだろう。