たのしい教師生活

高校教員7年目、地歴公民科担当。「たのしい」教師生活にするべく日々奮闘中。

カウンセリングと指導の関係

今週末は悪天候に伴い部活がオフとなった。おかげで、ゆったりとした時間を過ごすことができた。普段はまとまった思索の時間も取りにくいが、2日間もあればいろいろと考えることができる。今週末は、生徒指導について。

新版 生徒指導24の鉄則―指導に自信を深める「考え方」の原理・原則

新版 生徒指導24の鉄則―指導に自信を深める「考え方」の原理・原則

 

 近隣の大型書店で購入したが、面白くて2時間ほどで読んでしまった。

この本の中で興味深かったのは、カウンセリングと指導の関係についてである。

 

「カウンセリング・マインド」という言葉は初任者研修でも出てくるぐらい「重要」な用語となっている。しかし吉田は、「カウンセリング」と称して生徒を甘やかす風潮があると言う*1「受容と共感(理解)」というカウンセリングの考え方を、「許容と指導の忌避」と曲解している教員が多いということである。

しかしカウンセリングは、問題を消し去るのではなく本人の抱えている問題に気付かせ、正面から向かわせるためのものだ。問題に正面から向かわせるのだから、生徒に対してきびしい要求をすることもありうる。きびしい要求をすることで子どもの中での矛盾や葛藤を生み出し、自らの問題点に気付かせていくのである。ここを誤解してしまうと、生徒と「ぶつかる」ことをせずただ甘やかしてしまうことになる。

では、カウンセリングと指導の関係はどういうものか。生徒の訴えや言い分、気持ちには共感するが、生徒のとった生徒指導上問題になるような行動(授業妨害や暴力など)には理解を示す必要はない、ということになる。

幼い子がものの貸し借りを巡って友達と喧嘩した場面を考えれば良い。母にはまず自分の言い分をりかいしてもらう。帰って来た父には「お前にも原因があるのだから、お前も悪い」と叱られる。こうして子どもは成長する。つまり、母のように受け止めてもらうカウンセリングの部分と、父のようにダメなものはダメとたしなめられる指導の部分が必要なのだ。指導の際には「きびしさ」も必要となる。ここでいう「きびしさ」とは理不尽なものではなく、現実原則の提示と非妥協的な説諭のことである。

 

以上が本書におけるカウンセリングと指導の関係についてのまとめである。

まず、「許容と指導の忌避」という言葉、とっても耳が痛い。まさしく自分がそうだったからだ。

また、カウンセリングと指導が二律背反ではないことを、言葉で納得できたのは初めてだ。自分の中では二律背反の事象ではないか、と悩んでいたが、甘やかすのではなく生徒をあるべき方向に向かわせるのが目的なのだから、毅然とした指導が必要な場面があるのは当然である。しかし、カウンセリング的手法が必要な場面は多いし、私はそちらの方が得意である(し、さらに腕を磨きたいと思っている)。

ここで考えるべきは、教員団がチームとして生徒指導にあたっていくということであろう。私のような「母性型教師」はカウンセリング的手法による受容と共感をしつつ指導するべきは指導する。一方別な教員が「父性型教師」として生徒の前に立ちはだかる…こういうあり方でこそ、一人で抱え込まない生徒指導が実現するように思われる*2

さらに言えば、一口に「指導」と言っても、怒鳴りあげたり追い詰めるようなものではない。最終的に行動が改められればいいわけで、そう考えると穏やかに諭すというのも立派な指導になるだろう(暴力行為を制止するなどの緊急事態はまた別である)。

しかしながら、生徒に「今のままではダメだ」と提示することは、生徒と「ぶつかる」ことを意味する。ぶつかることを恐れてはいけない。すぐにわかってもらえなかったとしても、「仕方ないさ」と孤独を引き受けることも必要なのだと思う。それが、教員を仕事に選んだ者の定めなのだろう。

 

 

 

 

*1:これを「対決しない『カウンセリング』」としている

*2:この部分は、まさしく堀裕嗣の論そのものである。『教師力ピラミッド』(明治図書)参照。