たのしい教師生活

高校教員6年目、地歴公民科担当。「たのしい」教師生活にするべく日々奮闘中。

入学式 保護者参加なし

文部科学省からの通知を踏まえると、入学式は卒業式同様保護者参加なしとなるようだ。


しかし、卒業式に保護者参加なしということと入学式に保護者参加なしということでは、その意味がまったく異なる。


入学式では、教務部長や生徒指導部長からの説明がある。たとえば義務教育と違って欠課時数によっては履修不認定があり得るとか、、、入学式は、学校から保護者に重要な情報を直接伝える貴重な機会だ。


そして、入学式にしか姿を見せない保護者がいる…特にいわゆる「困難校」では。そういう意味では、入学式というのはなかなか連絡がつかない保護者と担任・学校が「つながる」機会でもある。


別に「フツー」の保護者であっても、PTA総会などに積極的に参加するとは限らない。入学式以外では保護者面談…多くても年2回ぐらいしか会う機会はない。

だから、自分がどういう教師なのか、どういうことを大切にして子どもたちに接していくのか、これを直接伝えられるのは入学式しかない。「百聞は一見に如かず」で、入学式でその場にいる保護者に語る方が、学級通信で語る(もちろんこれも大事な要素だが)よりも絶対にいい。


それに、保護者は自分の子どもの「担任像」を子どもから伝え聞いた情報で形成していく。イヤな想像だが(そしてよくある話だが)、もし子どもが自分にとって都合のいい情報しか保護者に言わなければ、「自分の子ども=我が家にとっての敵」という担任像が形成されてしまう。

だが、入学式で直接保護者に語りかけていれば、「担任像」はもう少しマシなものになるかもしれない。


こういう具合で、入学式には相当な意義がある。入学式に保護者が参加するのは、ただ祝うためではないのだ。入学式に保護者が参加できないのは、いろんな意味で「痛恨の極み」だ。


次年度の学級経営・学校経営は、相当な困難が出てくる…そんな予感がしてしまう。

スマホなしの生活

今日は、スマホを家に忘れて行ってしまった。

「緊急の連絡が入ってたらどうしよう」なんて最初のうちは心配だったが、ないならないで案外平気なもので、帰宅するまで12時間ほど触らないこととなった。

 

「物理的に」使用できなくする、というのはスマホ絶ちによいかもしれない。生徒に今度提案してみようか。

姿勢矯正ベルト

猫背を矯正するための「姿勢矯正ベルト」をつけたら、だいぶ効果がある。

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もともとカイロプラクティックに1ヶ月に1回ぐらい通っているが、やはり「普段、自分でどれだけ意識できるかが大事」と言われる。

私の場合、肩の位置が明らかに前にずれているから、それを正しい位置に持ってきたときの感覚を覚えましょう、という話になる。

しかし、いかんせん長年の悪癖であるから日常の生活動作のなかでどうしても姿勢が崩れてしまう。

 

そこで、リンクにある姿勢矯正ベルトを買ってみた次第。

特に体が痛くなるわけでもなく、無理なく肩の位置が正しいところに置かれる感じがする。

驚いたのが、深く息が吸えるようになったことだ。

カイロプラクティックの先生にも「姿勢が良くなると、呼吸がもっと楽になるんですけどねー」と言われていたが、正直その感覚はわからなかった。

だが、このベルトをつけていると明らかに楽に深く吸えているのだ。

呼吸が楽になると、疲労回復も早くなるらしい(酸素の吸収効率がよくなるからか?)。

 

しばらく続けてみようと思う。

 

 

『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』

 

 孔子孟子の思想はどうも説教くさいな、というのが正直な印象だった。

そういう気持ちの乗らなさは敏感に伝わるもので、「倫理」の授業で扱ってもいまいち盛り上がらなかった。

 

しかし、この本を読むとだいぶ印象が変わる。孔子の思想も孟子の思想も、「人生をこう変えるんだ!」という熱い思いがあることがわかる。

 

中国思想は、西洋思想のような壮大な問い(わたしたちに自由意志はあるか、とか、道徳とは何か、とか…)ではなく、「きみは人生を日々どう生きているか」を問う。

孔子の思想のキーワードの一つに「礼」があるが、この礼は、「かのように」ふるまうことである。そのことで、いつもの自分の習癖とちがった振る舞いをすることになる。つまり、変化が生まれる。その変化の中に、今までの自分とはちがう、ありのままの自分を見つけることができる。

 

たとえばこんな具合で、中国思想の単元の「教育内容」がいろいろと生み出せそうな本である。

おもしろかった。

2020

ついに2020年になった。この数字の並び、やはり何か特別なものを感じさせる。

 

2019年は、3月に修士課程を修了し4月からは自分の好きなことができる…と思っていたが、日常がそんなに変わるわけもなく、むしろ空いた時間でのんびりするようになった。

2020年は、リスタートの年。目標を新たに定め、それに向かって進んでいきたい。

そのためには、体調管理も肝要だ、ということを痛感したのが2019年。有給休暇を20日間きっちり取るのも目標にしたい。

 

【小ネタ】国民国家の形成過程

日本史の近現代(明治政府)だとか、政治・経済の「国際社会の形成」あたりで、国民国家とは何か、という話が出てくる。

 

国民国家」という抽象的な概念を納得してもらうための説明として、私は2つ用意している。「私たちは『日本人』である、と言うのはなぜか?」という問いを納得してもらうためのものである。

 

1)日本での災害、海外での災害・・・何がちがう?

「**県に住む私たちが、『熊本県で大地震が発生した』という報道を耳にしたとする。そのときは心が痛んだりたとえば募金しよう、と思う人が多いはずだ。一方、『トルコで大地震が発生した』という報道を耳にしても、我々の大多数はさして興味・関心を示さない。この違いはいったいなぜだろう?」

→国家の一員としての帰属意識(国民的アイデンティティ)が、無意識のうちに刷り込まれていることを自覚してもらう。

 

2)「日本語」って何?

国民国家が形成される過程では、言語を標準化する、すなわち共通語をつくることが行われる。日本でいえば、共通語、NHKのアナウンサーが使っているような言葉への統一が行われる。たとえば、日本全国でみんなそれぞれの地域の言葉である方言を話していたら、どういうことが起こるだろう?次の音声を聞いて想像してみよう。」

 ラジオ体操第1「ウチナーグチ編」を流す。すると、生徒から「これ、何語?!」「数字の言い方が違う!」など様々な感想が出てくる。それらをていねいに拾っていく。

「いま、『これ、何語?』という感想を漏らした人がいたが、おそらく明治時代の人々もそう思っただろう。自分の知らない・わからない言葉を話している人々とはコミュニケーションが成立しづらくなるのは、英語を勉強している君たちなら容易に想像がつくはずだ。だから、各地の方言が残ってしまうと、『一つの国家』という意識にはなりづらい。だからこそ、共通語を設定したのだ。」

→余裕があれば、国定教科書の「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」の話とか、沖縄の「方言札」の話もするが、なかなかそこまでの時間的余裕はない。

 

 

ラジオ体操第1 ご当地版

ラジオ体操第1 ご当地版

 

 

「イスラーム」の授業

現代社会」の授業で、イスラームを1時間で説明するには、、、というので少し悩んでいる。

要は、どこに重点を置くか、ということだ。

 

最初に提示する「フレーム」としては、「イスラームは、『型』を重視する」というところか。

 

授業のメインでは、『クルアーン』にある六信五行のうち、断食に焦点を当てようと思っている。「なんでそんなことするの?」という疑問に対して、その答えが明快だし割と分かりやすいのではないか。

そこから巡礼の話から「神の前では人間は平等である」というイスラームの基本認識を掴んでもらおうか。

 

やはり、話したいことが多すぎる。

女性が全身を覆い隠さなければいけない理由、とか、イスラーム過激派の話、とか。

 

いずれにしても、「馴染みのない」イスラームの話をするわけだから、よく組み立てないと。

 

信じない人のための〈宗教〉講義

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世界史との対話〈上〉―70時間の歴史批評

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